グイノ神父の説教
 
 

A年

復活節第1から

キリストの聖体の祝日まで


 

復活の日曜日
復活節第2主日 (神の慈しみの日)
復活節第3主日
復活節第4主日
復活節第5主日

復活節第6主日
主の昇天
聖霊降臨

三位一体の祝日
キリストの聖体


     復活祭  A年  2020412日   グイノ・ジェラール神父

       使徒 10,3437-43    コロサイ 3,1-4    ヨハネ 20,1-9

 暗闇から光を取り出し、水と陸を分けた神は、死から命の泉を取り出しました。エジプトの奴隷制度からご自分の選ばれた民を解放された神は イエスを復活させたことによって死の縛りから人間を救いました。世の創造の初めから人間を奴隷にし、圧迫し縛るものから神は救い出します。

 そういう訳でキリストの復活は、ご自分にかたどって造られた人間を虐げるものから解放する神ご自身の喜びを表しています。ですから、この喜びを私たちの心にしっかりと受け止めましょう。神の喜びは、私たちの罪と死の暗闇を追い出し、愛の強い炎として私たちの心を満たしたいのです。

 開かれた墓と残された死者の布は、ペトロとヨハネにとって印であったように、今日の私たちのためにも大切なしるしになります。この単純なしるしを通して、日常生活のあらゆる出来事の中で神の愛を見つけるように私たちは誘われています。しかし、このしるしが信仰を与えるわけではありません。この素朴なしるしは信じるための強制的なものでもありません。イエスの復活のしるしはとても見つけ難いです。ちょうど恋をしている人だけが、他の人々が見えないことを見ていると同ように、復活のしるしを読み取るには、心の目と愛の眼差しが必要です。

 愛だけが真理を見せます。愛だけが聖書を理解させ、日常生活の出来事のうちに隠されている神が差し出す救いを発見させます。今日の日、特に毎日曜日に私たちが集まり私たちが祝っていることはキリストの復活の出来事です。マグダラのマリア、マグダレナ、ペトロ、ヨハネそしてイエスの弟子たちに続いて、私たちは「イエスは私たちの罪のために死に、私たちの救いのために復活したこと」を信じ、キリストが来られ日まで宣言し続けます。

 そう言う理由で、今日特に、そして毎日曜日に、私たちはイエス・キリストの死を思い起こし、彼の復活を宣言し、そして「イエスが約束したように、世の終わりまで、集まっている私たちの間におられることを」確信をもって述べ伝えます。私たちが命と世の救いに役立つものを選び、自分のうちや周りにある死のあらゆる力を退けることができるように、復活されたイエスはずっと私たちと共におられます。

 心を尽くして「アレルヤ」を歌うように教会は私たちを誘います。「アレルヤ」の一つの意味は「神に感謝せよ」です。しかし、世界中のキリスト者の中には「アレルヤ」を歌えない人がいると思います。彼らの悩みや苦しみ、恐れが担いきれないので、神に感謝する力が無いのです。ですから、この重荷を負う兄弟姉妹に私たちの喜びを分かち合うことができるように神に願いましょう。神の慰めと訪れによって、苦しんでいる兄弟姉妹がマグダラのマリアやペトロ、ヨハネそして他のすべての弟子たちと同ように、深い悲しみから溢れるほど命に満たされた喜びへと移されように切に願いましょう。

 それができない人々に代わって、そして自分のためにも「アレルヤ」を歌いましょう。キリストは真に復活されました。キリストは、ご自分の命に私たちを与からせながら、すべてを新たにします。神に感謝!アーメン。アレルヤ。

 


     復活節2 神の慈しみの主日 A年 2020419日 グイノ・ジェラール神父

        使徒 2,42-47      1ペトロ 1,3-9     ヨハネ 20,19-31

 弟子たちは、主を見て非常に喜んだ、そしてキリストが与えた平和が彼らを安心させました。 しかし、大勢の人の前で恐れずに復活について証しをすることができるようになるには、弟子たちは聖霊降臨の日まで待たなければなりませんでした。それまでの間、数人のイエスの親しい弟子たちとイエスのそばにいた婦人たちは密かにイエスの復活について教えられていました。なぜなら、復活の出来事を信じることは容易ではないからです。これについてトマスの反応は極普通の態度です。

 今日の日曜日の朗読の教えを受けるなら、信じるために恐れと疑いから私たちを解放する大切な四つの土台を自分の支えと拠り所する必要があります。まず、第一に「使徒たちの教えを熱心に聞くことです。注意深く聞いて、心に思い巡らされる神の言葉はキリスト者の共同体を一致させ、強めさせ、皆の信仰と希望を豊かに養うからです。イエスは私たちを生かし聖化させる神のみ言葉です。

 次に要求されることは「相互の交わり」です。キリスト者は他の人々に自分の信仰、希望、喜び、悲しみ、時に自分の持ち物さえ分かち合う人です。謙遜に、そして信頼のうちに信仰の兄弟姉妹に自分の心を開くことは利己主義や高慢、無関心が作り上げるあらゆる障壁を破壊するからです。そしてお互いに赦し合うことによって、私たちは神の慈しみの神秘に与かり、憐れみ深い人となります。槍で貫かれたキリストの脇腹の傷は、キリスト者たちも自分の心を大きく開くように促す、具体的な呼びかけです。またイエスの手と足の傷は、私たちが兄弟姉妹の方へ行き、出会い、分かち合うことを具体的に誘います。

 三番目の要求は「一緒に、忠実に、命のパンを裂くこと」です。つまり毎日曜日、皆で一緒に主イエス・キリストの死と復活を祝い、イエスの栄光の体をいただくことによって、自分自身を養うことです。そうすることで私たちは死から命へ、地上から天国へ、普通の生活から永遠の命に過越すのです。イエスは「これをわたしの記念として行いなさい」と言って、私たちに唯一の使命を残しました。 ミサ祭儀はまた、罪から赦しへ、不和から平和へ、無関心から親切へと私たちを導きます。ミサ祭儀親密にキリストと一致するからこそ、私たちは知らず知らずのうちに、いつくしみ深い人、思いやりのある人、親切な人となります。

 最後の要求とは「熱心に祈ること」です。それはもちろん個人的に心で、自分の家で家族と共に行うことができます。また自分の属する教会の皆さんと声を合わせて、あるいは他のキリスト教会の兄弟姉妹と共に祈ることもとても大切です。祈りは聖霊の貴重な賜物です。これによって私たちは光り輝く者となります。

 結局、「神の言葉を聞くこと」、「相互の交わりを実践すること」「日曜日のミサに参加すること」、「熱心に祈ること」は、自分の手紙で聖ペトロが証したことを私たちに体験させます。確かに、赦しと平和を私たちに与えるために、イエスご自身が私たちの間に来られます。「私たちは、イエス・キリストを見たことがないのに愛しており、今見ていないのに信じています。そして、天からの、ことばに表せない栄光に満ちた喜びに浸っているのです。これは信仰の結果である、魂の救いを得ているからです」(参照:1ペテロの手紙 1,8-9)。

 今日は「神のいつくしみの主日」です。イエス・キリストの復活を信じ、祝い、宣言しましょう。そしてイエス・キリストのうちに示されている神の限りない、貴重な愛のために心と声を合わせて賛美と感謝をささげましょう。アーメン




     復活節第3  A  2020426日   グイノ・ジェラール神父

      使徒 2,1422-33      1 ペトロ 1,17-21     ルカ 24,13-35

 イエスをよく知るために、彼と共に歩む必要があります。なぜなら、イエスは命と真理の道ですから(参照:ヨハネ14,6)。エマオの弟子たちはイエスについてすべてを知っていると思い込んでいました。確かに彼らはイエスの洗礼の時から、イエスの遺体の無くなった空の墓の発見まで、そしてある天使が教えたイエスの復活の出来事も知っていました。しかし、この二人の弟子たちには聖書の知識が欠けていました。なぜなら、彼らの知識は聖書の教えと繋がっていませんでしたから。もう一つの重大な原因は、イエスはまだ彼らにご自分の体を食べ物として与えていなかったのです。

 イエスをより深くよく知るために聖書の教えと聖体の拝領は必要不可欠です。神が人間になった時から、イエス私たちの弱さと絶望を背負い、私たちの心が燃えるように一緒に歩んでおられます。先週の日曜日、初代教会のキリスト者が教えた通り、注意深く聞いて、思い巡らした神の言葉の光によって、人の目は清くなり、心は開き、信仰と希望は著しく強くなります。日常生活の出来事の意味をよく見分けるため、また失敗や落胆や絶望の意味を理解するために、神の言葉の光と助けは避けられないものです。暗記するほどによく覚え込んだ神の言葉は、イエスとの親密な深い繋がりへの必要不可欠な助けです。

 エマオの弟子たちは寂しさのあまり、暗い顔をして自分たちの歩みをやめました。キリストの死と共に彼らにとってはすべてがとまり、抱いていた彼らの希望も消えました。聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明しながら、イエスは二人の弟子たちを再び歩かせました。イエスの言葉は「わたしたちの道の光、わたしたちの歩みを照らす灯です」(参照:詩編119,105)。しかし、神の言葉の光だけでは、命の道を歩むに十分ではありません。事実、聖書についてのイエスの説明と教えだけでは、弟子たちの目を開くことができませんでした。

 彼らは「心を開くこと」だけを受けました。イエス一緒に留まるようにという誘いをすることは、弟子たちにとって自分たちの心が開かれたことを表しています。「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と。イエスが自分たちのすぐ傍に居ることを理解するためには、エマオの弟子たちに命のパンの助けが必要でした。イエスが祝福の言葉を言い、パンを割いた途端に弟子たちの目が開き、イエスの知識が彼らの心を満たしました。そして、エルサレムに残っている他の弟子たちに「本当にキリストは復活した」という良い知らせを伝えようと彼らは喜びをもって、すぐ出発します。

 私たちがイエスをもっと深く知り親しくなるため、またイエスは私たちの間に生きておられる事実を体験し、それを宣言するために、毎日曜日の典礼は命の道を歩む支えとなります。毎日曜日のミサ後は、新たにされた信仰と光り輝く希望に満ちた燃える心で各自の家に戻らなければなりません。さあ、一緒に祈りましょう。一緒に賛美しましょう。一緒に復活されたイエスを祝いましょう。そして、初代教会の共同体のように、私たちの共同体も 愛と慈しみに燃える一つの心と魂(参照:使徒5,32)になるように、聖霊の教え導きを願いましょう。 アーメン。



     復活節第4主日  A年  202053日   グイノ・ジェラール神父

            使徒2,1436-41  1ペトロ2,20-25  ヨハネ 10,1-10

 主イエスは復活しました。イエスは天の門、即ち永遠の命の門を大きく開きました。 イエス自身がそれを断言します。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と。この命が豊かに溢れ出て人々を聖化する、これこそイエスの唯一の望みです。そういう訳で、イエスは私たちの心のドアをいつもノックしています。残念なことに、このドアは外から決して開けることができません。開けるノブは一人ひとりの心の中にあります。イエスはドアをこじ開けたりしませんので、私たち一人ひとりは自分から心のドアを開ける必要があります。ご自分の命を豊かにもたらすイエスに私たちが熱意をもって速やかに心のドアを開けるためには、忠実な祈りの生活や実際の霊的かつ内面的な生活は大きな助けになります。

 聖霊降臨の日に聖ペトロが説教をした時から2000年が経ちました。「悔い改めなさい」即ち「神の味方になって、イエスの復活が提案している新しい命に入りなさい」と聖ペトロは勧めていました。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」と、今日、聖ペトロは私たちに思い起こさせます。確かにイエスは大きく開かれたドアでもありますから、彼の全ての賜物で満たされるように、私たちはそのドアを通して過ぎ越すことが必要です。今日のたとえ話のキリストの恵みの豊かさは、詩編の「緑の牧場」や「湧き出る泉」の象徴によって示されています。

 私たちも知っているようにイエスを深く知るために、イエスを愛することを学ばければなりません。フランスのシャルトル大聖堂のアダムの像が「愛することはお互いを見るのではなく、同じ方向を一緒に見ることです」(参照:アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ)と示しています。この愛のまなざしをイエスは私たちに要求しています。 イエスと共に同じ方向を一緒に見ることによって、私たちは「赦しと慈しみに満たされている神のまなざし」を持つようになります。この眼差しが命を豊かに与えることをイエスはよく知っているからです。

 よい牧者であり命の泉であるイエスは、私たちを守り、強め、導くために私たちの道を一緒に歩んでいます。イエスは羊を外へ連れ出します。というのは人が閉じ込められた状態生きるのを望んでいないからです。イエスは自分のすぐそばに自由な人がいることを強く望んでいます。聖ペトロは「イエスの足跡に続くように」(参照1ペトロ2, 21)私たちに呼びかけています。「よい牧者は羊の群れの中に立って、羊のにおいを持つ人です」と教皇フランシスコは言いました。


 聖パウロはキリスト者について同じことを言いました。「わたしたちは神に献げられた、キリストのかぐわしい香りです」(参照:2コリント2,15フランシスコ会訳)と。なぜなら、キリストと親密に生きる人は、ますますキリストと一致し、よく似る者になるからです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(参照:ガラテ2,20)とパウロは証ししました。私たちがイエスと共に死に、復活したのは「イエスの命がわたしたちの体に現れるためです」(参照:2コリント4,10)。この事実について、ゆっくり考えてみてはどうでしょうか。

 「主は我らの牧者、わたしは乏しいことがない」と、私たちは歌いました。それを本当に信じていますか。「キリストの声を聴くこと」や「キリストの後に従うこと」、「キリストと親しい関係を結ぶこと」、あるいは「イエスは私たちの名を知っている」ということは、私たち一人ひとりにとってどういう意味でしょうか。イエスの愛は無限であり、神ご自身の命を私たちに豊かに与えます。この命はまた、神と私たちの周りにいる人々とを結びつけます。ですから、良い牧者イエスに導かれるままに、聖霊の力の内に私たちに与えられている愛と救いのために神に感謝と賛美をささげましょう。そして親密にイエスと関わって生かされ、至る所で、特に自分の周りに「復活されたキリストのかぐわしい香り」を放ちましょう。アーメン。



     復活節第5主日  A年  2020年5月10   グイノ・ジェラール神父

           使徒 6,1-7    1ペトロ 2,4-9  ヨハネ 14,1-12

 今日の福音を通してイエスは父なる神についてよく話しています。この箇所の中で「父」という言葉は14回使われています。イエスにとっても、私たちにとっても、父なる神は人間の人生の目的です。この世を創る前から私たち一人ひとりのために、神は、ご自分の心の内にぴったりあった永遠の場所を準備しました。永遠の住まいに私たちを、受け入れるために、父なる神は限りない愛をもって、腕を大きく開いて待っておられます。

 「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」とイエスは約束しました。イエスご自身が父なる神に導く真理と命の道です。トマスとフィリッポは、イエスに次のような質問をしました。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」、「わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と。これに対してイエスの答えは、私たちをとても惑わせます。「わたしは道であり、真理であり、命である」「わたしを見た者は、父を見たのだ」と。いくら私たちが「イエスは父なる神への道である」ことを信じていても、自分の目で実際にイエスを見た人はここには誰もいません。イエスをはっきり見るために、私たちは死ぬ日まで待つ必要があるのです。

 弟子たちが、イエスを見、彼の声を聞いたようには私たちはできません。それでは、私たちはどのようにしてイエスと出会い、イエスを見ることが出来るのでしょうか、と思われるに違いありません。この謎に聖パウロは答えを与えました。「信者である私たちはキリストの目に見える体であり、また、一人一人はその部分です」(参照:1コリント12,27)。言い換えれば、キリストは私たちを通して人々と出会い、話し、自分自身を見せるのです。聖パウロはまた次の大切なことを教えています。「あなたがたは、自分が神の神殿です」(参照:1コリント3,16)と。即ち、信仰の絆によって私たちは「神と人々の出会いの場所」となっているのです。

 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」とイエスは教えています。確かにイエスは「世界におられる父なる神の現存の秘跡」です。イエスは父なる神とそれほどぴったり一致しているので、イエスを見る人は神を見るのです。次の約束を与えることでイエスはそれに対して私たちに証拠を示します。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と。そうう約束を与えることによって、私たちが「世の終わりまで、世界に留まるイエスの現存の秘跡」になるようにイエスは私たちを誘っています。

 父なる神を見せるため、そして私たちのために、どのように神が働いておられるのかを教えるために、イエスは私たちと同じ人間としての人生に与りました。私たちが父なる神と出会いの契約を結ぶ事ができるように、イエスはこの世にお生まれになりました。父なる神と分かち合うイエスの親しい関係が、同じように私たちと父なる神の関係となるようにイエスは望んでいます。なぜなら、聖霊の交わりの内のこの関係は命と真理の関係ですから。

 勿論、父なる神と私たちの関係は、日ごとの祈りとみ言葉を聞くことによって実現しなければなりません。心と力を尽くして神を愛するために、キリストとしっかり一致しながら、毎日祈ること、感謝すること、神のことをよく思い起こすことなどがとても大切です。ミサ祭儀が教えている通り「聖なる父、全能永遠の神、いつどこでも主キリストによって、賛美と感謝をささげることは、まことにとうといたいせつな務めです」。

私たちは「王の系統をひく祭司」であることを聖ペトロは思い起こさせます。即ち、十字架の上でイエスが掲示した「父なる神の限りのない愛」を伝える責任と使命を私たちは受けました。この責任は重大です。父なる神に毎日出会うために、私たちは「命と真理の道であるイエス」に忠実に従い、彼に倣う必要があります。聖霊の交わりのうちに世界の人々に私たちは「神の愛する子供」、「神の聖なる国民、神の聖なる民」であることを宣言しましょう。 アーメン。



     復活節第6主日  A  2020517   グイノ・ジェラール神父

       使徒 8,58,14-17     1ペトロ 3,14-18     ヨハネ 14,15-21

 キリスト者になった人は、社会性や霊性に対してきちんと自分の責任を果たす人です。今日の第一朗読は難しい状況の中に置かれていたフィリポが、自分の責任をどのように果たしたかを教えています。フィリポは使徒から選ばれた七人の助祭の一人で、やもめたちの世話と日々の品物の分配の責任を受けていました(参照:使徒6,1-6)。殺された若いステファノの死後(参照:使徒7,54-60)、キリスト者たちの迫害が始まったので、大勢の人はエルレムから逃げました。フィリポはサマリア地方に避難所を見つけました。なぜなら、霊的に不潔な者になりたくない迫害者たちはこの場所には入らないからです。使徒たちの務めであり責任であった福音宣教のためにフィリポは、サマリアで時間と知恵を尽くし、神の言葉を宣べ伝え、イエスの名によって悪霊を追い出し、病気の人々をいやし、サマリアの人々に信仰の門を開きました。

 エルサレムに残っていた使徒たちは、フィリポが宣教活動に成功しているのを聞いて、直ぐにサマリアへ行き、フィリポの宣教活動をやめさせるのではなく続けるように励ましました。フィリポから洗礼を受けた人々に手を置いて、その人々に聖霊を授けることによって使徒たちはサマリアの教会の土台をつくりました。

 現在の私たちは初代教会の時のようには迫害されていません。しかしコロナウィルスが私たちの信仰生活を攻撃し、私たちは一緒に祈ることも神を賛美することも妨げています。この異常な状況の中に置かれている私たちは、キリスト者の責任をどのように取っているでしょうか。このような時であるからこそ私たちは、至る所で福音のメッセージを伝え、絶えず祈ることによって神に全人類をささげるように聖霊の賜物を受けましょう。

 責任を取ることは勇気を示すことであり、また同時に「穏やかさと尊敬」を表すことだと聖ペトロは教えています。また、私たちが信じていることをよく理解しているなら「抱いている希望について弁明すること」も聖ペトロは要求します。なぜなら、信仰は知恵を支えとするからです。消えないように信仰を養い、育てることは大切です。しかし、残念なことに、「洗礼を受けたので自分は完成されたキリスト者となった」と思い込んでいる人が多いです。彼らは大きな考え違いをしています。信仰に目覚めているキリスト者、その名に相応しい人は、信仰のうちに目覚めていて、絶え間ない祈りを通して神を探し求め、人々と世界の出来事に対して注意深い人です。イエスは私たち一人ひとりにそういう生き方を願っています。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」と。 

 私たちは、イエスの復活の光によって、信仰生活は責任のある生き方だと分かります。イエスは父なる神のそばに戻ることによって、神の国の将来の責任を今自分に従う人々の手に残していることを悟らせようとしました。もし、私たちが人々に向かって、キリストに強く結ばれ自分の霊的な成長の責任を果たすなら、キリストの教会も成長し、神の救いが大勢の人に及ぶでしょう。聖霊降臨の祝日が近いので、すべてを新たにする聖霊に祈り求めましょう。聖霊が私たちの心に宣教的な火を灯すことによって、私たちがキリスト者として自分の責任を果たすことができるように、その力と英知が与えられますように。アーメン。



主の昇天 A    2020524日    グイノ・ジェラール神父

     エフェソ 1,17-23       マタイ 28,16-20

 昇天は神秘的な出来事です。なぜならイエスは私たちの目には見えなくなるのに、それにもかかわらず私たちと共にいるということだからです。「イエスが天に昇った」というのは「イエスが神の栄光の内に入った」ということです。実はその栄光は初めからキリストがもっていたものです。言い換えればイエスは遠い所へ行ってしまったのではなく、むしろこれからは、神の栄光に包まれた状態で私たちと一緒にこの世に残っているということです。イエスは約束した通り、世の終わりまで毎日私たちと共にいるのです。

もはやイエスの姿を見なくても、たしかにイエスは、私たちの間におられます。聖マルコはその目には見えないイエスの新しい現存を上手に説明しました。「主イエスは天に上げられ、神の右の座に着かれた。…主は弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(参照;マルコ 16,19-20) と。信仰と希望のうちにイエスと共に歩むために、イエスはすぐそばにいて、聖霊の力によって私たちの歩みを支えます。

また、「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」(参照 : ヨハネ!6,7)、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(参照:ヨハネ14,18)、 「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る、と言ったのをあなたがたは聞いた」(参照:ヨハネ14,28)と繰り返し「戻ってくる」という言葉をイエスは使っています。たしかに、「二人または三人がイエスの名によって集まっているところには、イエスもその中にいる」のです(参照:マタイ18,20)。

イエスの姿が見えないので、イエスはいないと考えてはなりません。私たちがイエスの名を口に出す度に、イエスは「私はここにいるよ」とすぐ答えます。同じように、イエスの名によって何かを行いたい時には、それを実現するためにイエスは助けの手を差し伸べます。というのは、イエスの名を言うことはイエスを現存させることですから。イエスの名は危険から私たちを守る盾であり、私たちの弱さを支える力であり、私たちの道を照らす光です。「わたしたちの助けは, 天地を造られた主の御名にある」(124, 8)と詩編作家は書いています。イエスの名は「あらゆる名にまさる名」(参照:フィリピ2,9)ですので、私たちは愛と尊敬をもって、謙遜にその名を口にしなければなりません。

イエスは天に上げられ、確かに神の右の座に着かれました。しかし「わたしは世の終わりまで、毎日あなたがたとともにいる」とイエスは断言しました。そうであれば、少し振り返って自問してみましょう。私たちはイエスと共に人生を送ること、つまり、イエスと共に祈り、行い、感謝することを真心から望んでいるでしょうか? 父なる神がイエスをご自分の右に座らせたのは、イエスが私たちを支配するためではなく、わたしたちを救うため、つまり私たちをご自分の命に与からせるためです。 イエスは父なる神のところに昇ることによって、私たちを自分の傍に引き寄せたので、私たちは三位一体の神の命とダイナミズムの内に入ることが出来ました。主の昇天によって私たちは神のレベルに引き上げられ、限りのない愛の内に入りました。

イエスは決して私たちから離れません。しかし、私たちがイエスから離れる可能性はあります。私たちがイエスから離れない限り、イエスは私たちの傍に留まります。主の昇天の出来事によって私たちは人々に遣わされることになりました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」、即ち「全人類の兄弟姉妹となってください」とイエスは願っています。どこへ行っても、至る所で、わたしたちはキリストの愛と父なる神の慈しみの証人となりましょう。聖霊の教え導きと助けによって、私たちが栄光と命に溢れるこの使命を忠実に果たすことができますように。アーメン。




   聖霊降臨 A年  2020年5月31日    グイノ・ジェラール神父

     使徒2, 1-11     1コリント12, 3-7,12-13     ヨハネ20, 19-23

聖霊は神ご自身の命を与えるお方です。私たちを愛に燃え輝く者とするために、聖霊は三位一体の神の中心に私たちを引き寄せ、導きます。聖霊は愛と慈しみの泉ですから。 聖霊は特に私たちの愛する能力と可能性を新たにします。聖パウロは次のように断言します。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5,5)と。

聖霊は洗礼の時、それぞれ個人に与えられますが、共同体にも与えられています。「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(参照:1コリント12,7)。福音宣教に遣わすために、聖霊はずっと教会に注がれています。聖霊は、多くの相違を持つキリスト者の一致を実現し、唯一の交わりに参加させます。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です」(参照:1コリント12,4)と書かれているとおりです。

聖霊の賜物は「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(参照:ガラテ5,22また「体のすべての部分の数は多くても、体は一つである」(参照:1コリント12,12)と聖パウロは教えています。そう言うわけで私たちが勇気をもって自分の賜物と才能を他の人々のために使うことができるように、毎日聖霊に祈らなければなりません。聖霊は必ず私たちの恐れや怠惰、偏見をご自分の火で燃やし、私たちを自由な者としますから。

私たちが住んでいる世界は、私たちが霊的な存在であることを容易に忘れさせてしまいます。洗礼を受けた日から、私たちは「聖霊の神殿」となり、さらに「神の子の資格」を受けました。 私たちの内に働かれる聖霊のお陰で、私たちの「命はキリストと共に神の内に隠されているのです」(参照:コロサイ3,3)。従って、神の限りのない愛が私たちの心満たすように、今日だけではなく、絶えず聖霊の助けと教え導きを願うことはとても大切です。「召し出してくださる聖なる神に倣って、私たちも聖なる者になり」(参照:1ペトロ1,15)、また「天の父が憐れみ深いように、わたしたちも憐れみ深い者となる」(参照:ルカ6,36)ことこそ私たちに委ねられた貴重な使命です。

聖霊降臨の出来事が見せるように、私たちが他者お互いに理解し合い、話し合うことができるように聖霊は助けを与えます。聖霊降臨の日に、大勢の人、一人一人(ひとりひとり)、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて理解しました。というのも聖霊は心と精神を一致させるお方ですから。

人間のグループは自分の特徴とイデンティテを示すために様々な記号やロゴマークやマスコットやシンボルを利用します。例えば、制服、名前、歌、ラベルなど。同じようにキリスト者たちの特徴は愛です。キリスト者は自分の行いを支え、導き、自分の心を満たす神の愛を世界の人々に見せなければなりません。

もし私たちが聖霊の教え導きを望むなら、私たちの小教区はあっという間に、愛の完成に導かれ、父と子と聖霊の神の神秘の内に一致した共同体となるに違いありません。ですから、聖霊が私たちを導き、ご自分の賜物で私たちを豊かに満たすように心から神に切に願いましょう。 アーメン。


     
   三位一体の祝日A年  202067     グイノ・ジェラール神父

出エジプト 34,4-68-9       2コリント13,11-13       ヨハネ3,16-18

どんな時代でも、全ての宗教は例外なしに神をあらゆるものの支配者だと考えて認めそのように教えます。神は命と死の主であり、幸福と不幸の泉であり、また人を愛し、人々や生き物やその他あらゆるものの支配者です。神の力を示すために人々は様々の名を使います。例えば、「いとたかき神」、「全能の神」、「すべてを治める神」、「神なる主」「憐れみ深い神」など。しかしイエスは神について語る時にただ一つの言葉を使います。それは「父」です。つまり神は怖いお方あるいは恐るべき神ではなく、むしろ私たちを愛し、ご自分の子供たちの幸福を望む神だとイエスは私たちに教えようとするのです。聖パウロも同じことを教えます「愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」(参照:2コリント13,11)と。

ところで、神は「父」でありながら、私たちの「兄弟」になりたいと望まれました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(参照:ヨハネ3,16)からです。人間になって、罪の他は、すべてにおいて私たちと同じように生活したことによって神は私たちの兄弟となりました。イエスは私たちに父なる神と親密に一致しながら、永遠の愛の神秘の内に生きること教えるためにこの世にお生まれになりました。父なる神の子として、またイエスの兄弟姉妹として生きるために聖霊が私たちに豊かに与えられました。聖霊は神が与えるご自身の命であり、また、私たちが愛されている神ご自身の愛です。さらに、聖霊は「神を愛する」こと、そして「互い互い愛する」ことを助ける力です。

聖書全体は三位一体の神の愛を啓示しています。この愛は限りがありません。全人類に、すべての人、即ち一人ひとりに与えられています。この愛は「憐れみ深く、恵みに富む、忍耐強く、慈しみとまことに満ちています」(参照:出エジプト34,6)。 神の似姿として造られた私たちは、真心から愛する時に三位一体の神の命に与かっています。子どもと親、恋人や夫婦の間、兄弟と姉妹、あるいは親戚への心の愛を示す時、人は三位一体の神と結ばれ神の愛の神秘に親密に与かっています。

聖パウロが教えているように、神が私たちを愛したように、私たちも愛するなら「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており…なぜなら、わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(参照:ローマ5,1、5,5)。

三位一体の神秘を理解することは、私たちにとって全く無理なことです。しかし、私たちは神と一致する、あるいはまた隣人と一致する神の愛を受け止めることができるのです。「人を愛することは自分の利益のためではなく、愛する人の幸福のためだ」と三位一体の神秘は私たちに教え、理解させています。

 神が私たちをご自分にかたどって造られた理由は、私たちが世界の人々に神のみ顔を現すためです。三位一体の神を愛することは まことの愛、無償の愛、神的かつ兄弟的な愛への手ほどきとなります。これこそ、私たちの信仰の中心であり、キリスト教の目的であり、神の子として私たちの使命です。アーメン。


キリストの聖体  A年  2020614日   グイノ・ジェラール神父

    
申命記 8,2-314-16   1コリント10,16-17  ヨハネ 6,51-52

「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(参照:1コリント10,16-17)。ミサ祭儀の供え物は日常生活でどこにでもあるものです。それはパンとぶどう酒、そしてほんの少しの水です。しかしそれらの供え物なしには、決してキリストの御体と御血の秘跡はありません。それどころか、私たちの間にキリストの実際の現存もなく、さらに私たちがキリストの神秘的な体になることもありません。

 私たち自身も取るに足りない者ですし、僅かなことしかできません。限りのある私たちは、上手に祈ることができません、そしてミサの時に心が他にいっているので神の言葉をうわの空で聞き、まったく理解せずに黙想しようとしないこともあります。それにもかかわらず、神は御子キリストを通して、私たちを世界の人に与えられ「ご自分の現存の秘跡」とされます。人々の心に触れ、人々を回心させるために、神は私たちの弱さを利用なさいます。山を動かすために、神は私たちの下手な欠だらけの祈り方を必要としています。地上にご自分の愛のを投ずるために(参照:ルカ12,49)神は私たちの小さな犠牲と目立たない愛のを要求します。

確かに、目に余るようなキリスト者であっても、自分たちの欠点と過ちにもかかわらず、神の目には「私たちは価高く、貴い者であり、愛されています」(参照:イザヤ43,4)。ですから、キリストの聖体の日に当たって、世界に与えられている「神の現存の秘跡」となるために、恐れずに自分自身を神の手に委ねながら、賛美と感謝をささげましょう。「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(参照:ローマ12,1)と、聖パウロは私たちに勧めています。パンやぶどう酒、水の供え物、そして私たち自身の委託なしにミサ祭儀を行うのは到底無理です。勿論、キリストの御体と御血の拝領もきません。

パンと魚の増加をした時、イエスは群衆がそれらを分かち合うように誘いました。そういう訳で、私たちは今日こそミサ祭儀の意味について真摯に考えるようにイエスに招かれています。この教会に来る度に、キリストが私たちの共同体を満たし満腹させて養うために、また私たちが聖化されるために、いったい何をイエスに持って来てささげるのでしょうかどのように私たちは神に賛美と感謝を捧げているでしょうか。私たちは神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとなるために、どのようにして自分自身を主に献げ、委ねようとしているでしょうか。教会にいったい何を探しに来たのでしょうか。


私たちは同じミサ祭儀に参加し、キリストの同じ御体と同じ御血をいただき、分かち合います。私たちは、多数であっても一つの体です。自分の持ち物をいつでも分かち合うことができます。しかし大切なのは、自分の生き方を分かち合うことです。日常生活を分かち合う事とは、自分たちを囲んでいる人々のニーズ(必要)に自分の耳も目も心も手も開くことです。

 この教会で一緒に集まっている兄弟姉妹の喜び、悲しみ、心配、希望や怒りさえも分かち合うことができるように、イエスはご自分の御体と御血、そして聖霊の賜物を私たちに豊かに与えます。私たちがイエスの命に生きることができるために、そして何よりもまず、自分を囲んでいる人々の責任を感じて果たすようにイエスは私たちを養う糧となりました。イエスは世界の人々を見て、次のように打ちあけます。「群衆がかわいそうだ」。それは私たちがイエスの名によって人々に愛と慈しみを示すためです。キリストの体である私たちが、聖霊によって父なる神の愛の内にお互い同士親密に結ばれますように。アーメン。

 

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